産んだ日の出来事 (夫編)

初めまして、夫の方です。

今回は夫側の視点をメモを残すかわりに書いて行きます。

 

遡る事、出産一週間程前。

妻が2015-10-20 - 胎動が弱くなった - 猫は人を盲目にするで言及した真夜中の産院小旅行。

この件までは予定日が近いから「そろそろ」という感があるものの、時間間隔が漠然としていて、現実感が無かった。この真夜中の事変から「そろそろ」が少しピリピリするような「何時あってもおかしくない」に変わった。

 

仕事をするにしても、数時間掛かる業務は「これは終わらせずに帰る事になった場合、大丈夫なのか?」と頭の隅で緊張感がとぐろを巻いている感覚が続く様になる。自分が妻を病院に送り届ける以外の大した事が出来ないと感じるからこそ、なんとかその部分はしてやりたいし、それだってタイミングが合わなければできないと思うとなんとも歯がゆい。

 

このとぐろを巻かれているような緊張感は出産が終わるまで続いていく。様は自分が役に立たないかもしれないというのが怖いのだ、と振り返ってみて思う。胎児を成し、育て、産むというプロセスは自分には代わってあげられない、共有できないという焦りとその中で細切れにしか来ない役立ちポイントをタイミング次第で失うかもしれないという憤りが大袈裟に言えば怖く、緊張感を産み出すのだと思う。

 

そんな感覚に慣れだした頃に出産日がやってくる(2015-10-25 - 産んだ日の出来事 - 猫は人を盲目にする)。陣痛が始まったかもしれないと言われた時には緊張の糸が解けたのか笑ってしまった。「やっときたか!」とに近い開放感があった。ただ、できるのは運転ぐらい。慌てず、急いで、事故らずに....。と思って産院に行くものの、半ば予想通りに一度帰されてしまう。確かに自宅の方がのんびり(?)できるし、陣痛が収まってしまったりする場合を考えれば正しい判断なのだとは頭ではわかっていても梯子を外された感覚は拭えない。待つのとその間に寝ておくのもサポートのうちだと自分に言い聞かせながら仮眠。「そろそろだと思う」と妻に起こされて再度産院へ。

 

自分は痛まないからと言っても、パートナーが痛みを訴えるのは見ていられるもんじゃない。少しづつ強くなっていく痛みをどうにかしたいのに出来ないのが歯痒い。「早くお産にもっていきましょう」と言う産院の人の言葉が救いの言葉に聞こえるも、それはつまり「もっと痛みを強くしましょう」とも同義に聞こえるので素直に喜べない。痛みを和らげれば長引くし、早く済ますためには強くしないといけないのはシンプルに聞こえるが簡単な、そして、痛みを感じている張本人に尋ねる事じゃないなと思う。自分だったら...という問いには痛みを感じていない自分の意見はあるものの、同じ痛みを受けながら同じ選択ができるかどうか、わからない。

 

そんな経緯をへて産まれた子は外側に叩きだされた事をびっくりしていた顔をしていたんだと思う。そうだよね、さっきまで臍帯さえあれば生きていけたのに唐突に肺を膨らまして、空気を吸い込まないといけないんだもの。なによりも嬉しかったのは妻が陣痛から開放された事だったと思う。

 

生まれたての我が子はびっくりするほど赤くて湯気をあげていた。ふやけている我が子を可愛いと思うべきなのかどうか悩む間もなく、自我をもつ個体として、我が子は食料を要求した。あゝ、食い意地って遺伝するんだなと思いながら、それが子供が生まれたという最初の実感だった。

 

居た事がありがたいとは言われたものの、本当に無力だと痛感した出来事でした。

 

おめでとう、ありがとう、そして、本当にお疲れ様。